歴史と文化が今も色褪せない町
燈籠山祭りは能登半島最先端の珠洲市飯田町に鎮座する春日神社の祭礼で、その起源は江戸時代の寛永年間初期(1625年ごろ)に遡ります。神事としては「おすずみ祭り」と呼ばれています。
春日神社では、7/19に前夜祭、20日には本祭・榊神輿渡御・燈籠山、山車巡行、21日には氏子全域への燈籠山巡行が斎行されます。寛永年間の初期、土用入りの暑さがはなはだしい頃に、春日神社の御祭神である「天児屋根命」をはじめ七柱の神々に夕涼みにお出まし願ったのが祭りの始まりとされてます。
春日神社の神事と祭礼
大昔、氏子の人々は高張提灯やデンガク燈籠に灯りをともして大勢賑やかに供奉して神社への送迎をしたと伝えられています。時代とともに豪華絢爛に発展し、「燈籠山(とろやま)」といわれる巨大な山車(やま)となりました。神様の渡御は一般的な普通の神輿ではなく、「榊神輿」と呼ばれる白木造りの台車に六尺程度の榊を立て、それを神籬(ひもろぎ)としてお出ましになります。その巡行経路も春秋のように氏子区域全体をまわる形式ではありません。海岸近くに御仮屋(おかりや)を設営し、そこを御旅所(おたびしょ)として夕刻に渡御(とぎょ)、そして御旅所での神事が行われます。この神事の中では必ず大祓詞(おおはらえのことば)を奏上します。これが「おすずみ祭り」の特徴を最も表しており、海辺へお出ましと大祓詞奏上はまさに神様と氏子の禊・祓(みそぎ・はらえ)なのです。
このおすずみ祭りは神様の夕涼みという側面だけでなく、根底には禊・祓の進行が根付いた祭りであり、罪・穢(つみ・けがれ)をお祓いする神事をおこなっています。
このような慣わし(ならわし)は能登半島の多くの神社で行われており、6月晦日の大祓(※1)が行われない理由がここにあります。
※1 大祓(おおはらえ)は6月晦日と12月大晦日の年に2回行われる古来よりの神社の儀式です。
明治初期以降の飯田町燈籠山祭り
明治初期頃、飯田町は7町内からなり(現在は8町内)すべての山車(やま)が燈籠山(とろやま)でした。時代の世相を反映した人形題材が多く、兵隊などの軍事色の濃い人形も作られ飾られていました。各町内で競い合うように作られていたため、からくりで動作する人形や人形評議審査などがあったと伝えられています。
大正時代には姿を消した人形
町内の電線架設に伴い、電線にかかるため、山車だけでの運行を余儀なくされました。上部にぽっかりと空いてしまった穴を隠すため、竹で作った桜の花飾りがつけられ、人形は飾られるなどして使われていましたが、だんだんと作られなくなります。その代わりに、山車の前に舞台を組み、踊りが興じられ、子供踊りが盛んになっていきました。
復活を遂げた燈籠山
昭和に入ったころから大きな記念イベントが行われた際に曳きだされるなどして燈籠山が活用され、昭和58年には正式に飯田町燈籠山祭り保存会、飯田町祭礼委員会が発足し、燈籠山が復活しました。
2009年5月に飯田わくわく広場がオープンし、2年に1度の燈籠山人形制作はわくわく広場にて行われます。
飯田町を一周できるよう、そのころには電線の地中化が一部され、祭り1日目にあたる7月20日の夕刻は「お祭り体験」とし、祭礼の一部を観光化することで地域貢献・地域活性化・祭礼の発展へ進化を遂げています。